2020.2.26

ノストラダムスのせいなんだ

ノストラダムスの大予言によると、1999年に世界は滅びるはずだった。

その予言を知ったとき小学生だった私は当然、信じた。なんてことだ。我々は全員、若死にする運命だ。生きているうちにできることをやっておかないと。

そう考えた小学生は私だけではなかったはずだ。我々は生き急いだ。運動会では全力を出した。世界が滅びる前にかけっこで1位を獲らねばならない。本当は最後まで残しておきたいケーキのイチゴも真っ先に食べるようになった。好きな男の子に手紙も書いた。なにしろ我々は滅亡するのだ。短くても悔いのない人生を生きねばならない。

中学生になっても生き急ぐ性質はそのままだった。心の機微を詩に記し、きみのために書いたよと渡した。照れる必要はない。1999年になれば、恐怖の大王がこの世を燃やし尽くすから。

高校生になっても大学生になってもそのままだった。さすがに大学生になる頃にはノストラダムスはとっくに忘れていたが、99年を目前にするとやはり本能で生き急いだ。
そして類は友を呼ぶ。ノストラダムスを信じた者は集まり、理由なく高いところに登り、川に飛び込み、何かを燃やし、好きな人には好きと言い、自作の曲を叫び、詩を贈り、お酒を飲んで朝まで踊った。当時まだSNSがなかったことは幸運でしかない。

あるとき仲のいい後輩が言った。

「恥ずかしいこともできんやつに何言われてもえーけーねえ」

この広島弁を意訳すると「満足に恥もかけない人間の言葉には説得力がない」ということになるだろうか。その場の全員が同意した。思いを行動に移し全力で生きることこそ最善だ。広島で生まれ育った者の多くは家族や親戚、その同級生を原爆で亡くしている。自分たちは生き残りだという自覚が、全力主義に拍車をかけるのかもしれない。もちろん推測だ。

社会人になって東京にやってきた。ダムス前(「紀元前」的な意味で)はまもなく終わる。そしてダムス後が来ることはない。生を謳歌できるのも時間の問題だ。盛り上がらない飲み会では率先して道化を引き受けた。今となってはパワハラだが、こちらにはやってやろうじゃないかという気概しかない。スベってもオヤジギャクを言い続ける鋼の心も持っていた。とにかく我々は全力なのだ。

そしてまもなく、1999年は過ぎ去った。なにごともなく。まちは「ミレニアム〜」という祝祭で満たされていた。

おい、いったいどういうことだ。滅びるんじゃなかったのか。

こんなに早く余生が来るとは想定外だ。ダムス後の我々には生き急ぐ性質だけが残された。しかも金は使ってしまった。老後に2000万円も必要ならダムス前に言ってほしかった。厳しい余生になりそうだ。

もっと問題なのは、ノストラダムス前に仕込まれた爆弾だ。

小学校卒業後20年が経ってから「あの時の手紙、まだ持ってるよ」と言われる。記憶喪失を装う。

「もらった詩が出てきたよ」と写メが届く。ありがとう。でもおかしいな、手汗で送信ボタンが押せないや。

こいつはまったく生き地獄だ。恐怖の大王はなぜ来なかったのか。そしていったい、あといくつ爆弾があるのか。過去を振り返ると、恥という名の爆弾で埋め尽くされた地雷原。まずい、この量を処理できるのは『ファミ通』の裏ワザで無敵になったボンバーマンしかいない。

さらに困るのは、新たな爆弾が次々と生まれることだ。我々は既に生き急ぐ種として成人しており、ダムス後もその生き方は変わらなかった。むしろ小学生より金があるぶんひどい。イチゴは堂々と最初に食べ、好きな人に好きだと言うだけでなく、とつぜん旅に出るなどやりたい放題だ。なにしろ我々にとってダムス後は余生。せっかく生き延びたのだ。好きにやらせてもらう。

そして時はさらに流れ、今年はダムス後20年を越えた。インターネッツはウサイン・ボルトも真っ青なスピードで進化した。今やLINEやTwitterでもスベることができる。しかもメッセージを時系列で追える仕様は、どのような経緯でスベったかもたやすく確認できる。

「試合が終わればジェノサイド! あっ違ったノーサイド!」というのは、私がもっともスベるギャグだ。いや、あのね、ノーサイドとか言うじゃないですか、対戦後は敵味方関係なく友情が生まれるみたいな。それがジェノサイド(虐殺)だと似てるけどぜんぜん違うじゃーんハッハッハッという長い説明が必要な渾身のギャグだ。まだウケたことはない。

しかもSNSはワールドワイドな交流を可能にした。今やグローバルにスベることができる時代だ。外国人相手に「君って本当にかっこいいよね。あっ私、目は悪いんだけどね」という高田純次風ギャグに失敗し、「目は大丈夫?」と心配されたやりとりも時系列で追うことができる。

さらにSNSでは愛も伝えることができる。

たとえば油断しているタイミングにメッセージが来るとする。請求書を作ったり仕事のメールに返信しているときだ。開くと届いたメッセージのすぐ上には、自分が送った愛の放射能ダダ漏れメッセージが表示されている。

キミは送ったラブレターを読み返したことがあるかい? 死にたくなるからやめたほうがいいぜ。

余生はつらい。もう死んだほうがましだ。お母さん、私は恥の多い人生を送ってきました。どうにか安穏と死ねる方法はないものか。さまざまな方法を検討したのち、ヒマラヤ登頂を試みそのまま帰らぬ人となる方法が確実かつドラマティックだと思い至る。

ヒマラヤの寒々しい山頂に思いを馳せる私の心に、ふいに仲のいい後輩が現れた。

「恥ずかしいこともできんやつに何言われてもえーけーねえ」

そうだ、忘れていた。我々は思いを行動に移す者である。それゆえ恥の多い人生を送ることになろうとも、ダムス後まで生き延びたからには誇りと気概だけは忘れてはならない。

我々は今後もイチゴを最初に食べ、理由なく高いところに登り、好きな人に好きと言うだろう。
いつか恐怖の大王が来るまでは、好きにやらせてもらう!


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