毎週月曜新聞 悪のロゴ
2015.4.8


審査員特別賞(一般人枠)

月に何度か、一般人への取材がある。町の小さなお店を訪ね、タウン誌などに紹介する仕事だ。有識者や芸能人の取材にくらべ、原稿料は安い。でもこの取材が好きでたまらない。それはこんな人との出会いがあるからだ。


この日の取材は古い喫茶店。テーブルは麻雀やインベーダーゲームができ、うち1台はまだ現役のようだ。椅子はビロード調で、ビスで止めてあるタイプ。時代にそぐわない全面喫煙で、壁は黄色から茶色の「美しい」グラデーション。壁にかけてある時代遅れの絵も、今ではどれもほとんど同じ色。誰かがここに昭和を置き忘れたようだ。

大切に使っている古いサイフォンで、ちょっとずつコーヒーを入れてくれる。今風のカフェなら、コポコポ言い始めたサイフォンを長い棒でくるくるかき回すのは、黒いピシっとしたエプロンのガール。この店では、淡谷のり子似の華奢なおばあさんが、菜箸のような棒でぐるぐるかき回す。色付き眼鏡の奥の目は、50年前の絶世の美しさの欠片のよう。

 主人がね、もう亡くなったけど、ある日、物件を決めてきてね。

背筋を伸ばし美しいブラウスを着た彼女は、上品なダミ声。台詞のすべてに濁点を付けて再生してほしい。

 そうねえ、今年で何年になるかしらねえ。◯年前に改装はしたけど、そのままね。

古い普通のカップに入って、淹れたてのコーヒーが出てくる。ソーサーにはいただきものらしいクッキーとチーズおかきが添えられている。茶色い粒砂糖をザラザラと入れる。普通のコーヒー。普通においしいコーヒー。

コーヒーを淹れ終えた彼女は、足を引きずりながらカウンターから出てきて、定位置と思われるそこだけ散らかった客席に腰を下ろし、優雅に煙草に火をつける。大きな灰皿は吸い殻でいっぱいだ。

 それはね、娘の名前なの。

店の名前の由来だ。もしかして、コーヒーを運んでくれた(美しいとは言えない太った中年)女性だろうか。

 そうそう、上の娘。もうすぐ孫も高校から帰ってくるから、時々手伝ってくれるの。

美しい店の名前が、くたびれた服を着た中年女性のものと同じことに静かにショックを受ける。 先程から誰かの悪態ばかりついている禿げた中年男性も、客だと思っていたがどうやら息子のようだ。場外馬券売り場で会えそうだ。
くすんだ店の中で、彼女だけがアンティークの宝飾品のように高貴な光を帯びていた。 どうすればこうなれるのか。ちょっとだけ想像し、その道程の長さに気が遠くなってやめた。

店のドアがチリンと鳴りながら開き、野菜を山ほど抱えた障害者が入ってきた。いつも来る行商のようで、不揃いな人参、名前も分からない葉野菜、それらを買ってくださいと言う。彼女は煙草を吸いながら、それじゃ高いわよ、まけなさいよと上品なダミ声で値切り、結局、山ほど買う。私も買う。この時点で、私も店の空間の一部になっていたからだ。

もうこの時にはすっかり淡谷のり子を好きになってしまい、コーヒー2杯で長居したことを恥じ、まるで昔から通っていたかのようにパフェを頼む。

 そんなに食べるとおなかをこわすわよ。

そう言って彼女は足を引きずりながらやってきて、コーヒーの残りにホイップクリームをもりもり絞ってくれた。


2カ月前、2年ぶりに近くを通りがかった。恐る恐るドアをチリンと開けると、彼女は同じ場所で、大きな灰皿を吸殻でいっぱいにしていた。相変わらず、表彰したいような迫力の佇まいだった。


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